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 清水峠は望郷の道であり、越後三山は親たちの山である。子供のころ家では、越後の親族が訪ねてくるとふるさと越後の人々や山や川のことが語られていた。

 そのひとつ越後駒ヶ岳には20年ほど前に、当時小学5年生くらいであった三番目の息子と二人で向かった。11月初旬の連休であった。低気圧通過後いっきに西高東低となり関越道にむかう西の空は真っ赤に夕焼けていた。夜の枝折峠は雪が舞っていた。車中泊して未明に発った。長いアプローチであった。駒の小屋から頂上までの斜面は膝までうまる新雪をラッセルした。大方の感動は時が経てば忘却してしまうものだが、あのときの夕焼けと新雪のラッセルは忘れられない。

 八海山のことは、その岩峰の峻烈な様子などを父親からよく聞かされていた。はじめて登ったのは昨年の盛夏である。新潟で仕事をしていた二番目の息子を訪ねる、ついでに八海山によってみようと、軽い乗りで向かった。単独行、ルートは屏風道。山と高原地図では難コースとされ点線のルート表示がなされていた。鎖場が連続していたが、塩っぱいのは、むしろしたたる汗のほうで、持参した水で間に合うかが心配であった。

 今年の1月に満65歳になった。高齢者の仲間入りである。区役所から高齢者カードが届いた。自分自身は高齢者という実感はないが、あと15年生きれば80歳。残りは多くはないかもしれない。あの世で待っている親たちに、越後の山川の話を冥土の土産にもってゆかねばなるまい。そんな心境もあり、今年の10月、越後中の岳をめざした。丹後山の避難小屋で一泊し、翌日に中の岳にのぼって十字峡におりる予定である。

 新幹線で浦佐まで行き、浦佐から十字峡まではタクシー。十字峡から栃ノ木橋までは渓谷沿いの道である。深く浸食された谷を渓流がいさましく流れ、両岸の岸壁からは幾条の滝が落下している。渓流の瀞は青くすきとおり、尺のイワナが潜んでいる風情である。私の祖父、山崎藤吉は大学の史料編纂所を退官したあと郷里の六日町にもどり、魚野川や三国川(サグリガワ)で釣りをしていたという。伯母の話では、藤吉さんは一斗缶に塩と食料をいれて一週間くらい山に釣りごもり、塩をまぶしたイワナを一斗缶いっぱいにして帰ったという。かくも沢山イワナがいた時代が三国川にあったのだろう。その話を思い出しながら渓流沿いの道をあるいた。渓流の巨大な岩や崖から落ちる滝、イワナの淵、などなど祖父も父もかつて見たことであろう。それらの現を私は観ている。

 丹後山避難小屋の天水は10月第2日曜日までと、ガイドブックには載っている。この記載を甘く読み込んだのが誤算であった。ジャコノ峰のあたりで長靴の三人が熊追い鈴をならして降りてくるのと出会った。遭難救助隊をしめすワッペンが縫い込んであるシャツを着ている面々である。小休止して話をした。越後訛りの彼らが言うには、もう、いつ雪がくるかわからないから、小屋の冬仕舞いをしてきたとのことである。

〈えっ!!天水は??〉と問う。「すべて片付けて小屋にしまってきた」とのこと。せめてもの望みに〈ポリタンに水はとってありますか〉と問う。「ない」とのこと。水がなければ万事窮す、だ。私のザックの中、2リットルのペットボトルの水の残量は1リットルよりない。

さあ、どうしよう・・・。困っていると長靴の人が「あとは下山するだけだからどうぞ・・・」とペットポトルの水を恵んでくれた。

 避難小屋では午後5時にはシュラフに入り、朝の5時には起床した。そのとき、水は1リットルより残っていなかった。この量では水場のない大水上山、兎岳、中の岳のコースを越えて十字峡にもどるのは困難であろう・・・、と判断して下山することにした。

 尾根の松の巨木のあたりまで降りてくるころには膝が疲れはじめていた。それにしても見事な巨松。多分、五葉松か。大人三人で抱えられるほどの巨木である。雪国の自然に鍛えられての根張り、幹生、枝振りの荘厳なこと。樹齢数百年はあるのかもしれない。ただに感服するばかりであった。

 それにしても我が身の情けないことか。膝まわりに力が入らず、天候に恵まれなかったので活躍することのできなかった大型三脚や写真機材の存在が重荷であった。荷物をもっと軽量化しなければならない・・、トレーニング不足だ・・・、などなどを嘆きながらの下山であった。過信があったのだ。日常的には水泳をしているし、体力年齢を測定したら37歳であるし、身長174、体重70、体脂肪率17%、血圧は110/60、脈拍50/分などで循環器系等もふくめ健康標識はすべて良好であるのだが・・・ああ、脚力は落ちているのだ!!!・・・、走らなければダメだ!!!・・・、体力や健康を過信してはいけない!!!・・・思い込みと現実のギャップの間で遭難事故は発生するのだろう・・・・とつくづく思った。そして、伝え聞く私の親たちの話、昔の人は脚力に優れていた話を思い出していた。

 聞くところによれば、明治3年生まれの祖父「藤吉」の親の時代には、江戸(東京)にいくのは歩行にてであった。早朝に六日町を発ち上越の峠道をこえて、その日のうちに高崎まで行って泊まり、翌日に江戸(東京)に着く、という旅であったという。本当にそんなに歩けたのか、と疑問におもう。まるで山岳マラソンでないか・・・と思う。どの峠道をたどったのか。清水峠か三国峠か。

 ここで横道にそれて、峠道と魚野川舟運と鉄道発展の関係を多少とも記しておく。祖母ムラ(明治10年生)の実家ヱビス屋は魚野川の舟運業と旅館業を生業としていた。父「宗弥」(大正2年生)から聴いていた話であるが、魚沼の人々は鉄道が運行される前までは魚野川を船で遡り六日町まできて、六日町からは三国峠あるいは清水峠をこえて上州にはいり江戸(東京)をめざした。

 魚野川の舟運が衰退したのは明治26年の信越線全通がおおきく起因すると聞く。清水トンネルが開通して上越線が全通したのは昭和6年であるから、上越線の開通は舟運衰退因子としては無視できよう。昔、江戸幕府は三国峠を街道として整備し、湯桧曽には口留番所をおいて清水峠への通行を禁じていたが、明治時代に入り、清水峠は明治6年に新道の開削がはじめられ、翌明治7年に幅員1.8m、延長29.2KMの山岳道路として開通する。さらに明治11年、東京と新潟を最短路で結ぶ国道として拡幅工事が計画され、明治18年清水越え新道(清水国道)として全通した。しかし、その年の豪雨と翌年の雪崩によって破壊され、破棄された。街道は再び三国峠に戻ったのである。

 信越線が全通した明治26(ときに藤吉23)から上越北線(いまの上越線の新潟県内部分)の長岡・小千谷間の開通(大正9)(ときに藤吉52)までの29年間と、それから小千谷・六日町間が開通した大正12(ときに藤吉55)までの3年間はヱビス屋にとって激動の時代であったに違いない。その30年余りをかけて舟運・旅籠は衰退した。そのような時代を生き抜いた彼らが、越後の山川をどのような目でみていたか、今となっては知る由もない。

 万物は流転する。生き物はすべて時々刻々と変化しているシステムであり、命の流れのなかで次の世代に命をひきついで消えて行く。

後記

 この一文を書き終え散歩にでた。見沼通船堀公園を歩いた。次の山行に備えなければ・・・と考えていた。手頃な斜面があったので、走って登りすばやく下る運動を繰りかえした。ところが、急斜面をいっきに登ろうとダッシュしたとき、ブスと鈍い音を左下肢が発した。しまった・・・!!! 後の祭りだ。
 腓腹筋あるいは腱の断絶であろう。痛みのなかで老いが進行しているのを感じざるをえなかった。

 いま吉田兼好の「徒然草」の一節を思い出している。曰く、
「若きにもよらず、強きにもよらず、思い懸けぬは死期なり」(137)
「死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして 来る。」(155)
「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」(93)・・・・。

 明日はサントリーホールでポリーニのベートーヴェンがあります。この3か月間、演奏予定曲目を聴きつづけてきました。待っていたのです。でも、歩行障害がでてきました。行けるか心配です。しばらくは松葉杖の生活、避けられないようです。(Si.Y記)

越後三山   ------   親たちの山へ

山行実施日;10月14日〜15日
参加メンバー;Si.Y

 私は生まれも育ちも上州、子供のころから上越国境の山々をみてきた。山稜のむこうに親たちの故郷があった。望郷ふかく親たちは異郷で暮らしていたようだ。交通の不便な時代の感覚が引き継がれていたのかもしれない。

 上州の詩人、土屋文明は歌集「放水路」のなかに、「清水越」と題して5首を遺している。

うちつづく尾花(おばな)のたけの高ければ花粉(はなこ)はかかる(あたま)(うえ)より
(おさな)き日(あめ)()らへる雪と見し清水(しみず)嶺呂(ねろ)今日(けふ)ぞ越えける
越後(えちご)より干鱈(ひだら)背負(せお)ひ越え()にし人はゆくなり尾花(おばな)(はら)
泥鰌(どぢやう)うりて帰る(おきな)も声かけぬ上州(かみつけ)越後の国ざかひの
空桶(からおけ)()へる翁を見かへれば吹かるる如し草山(くさやま)くだりに