戻る

登り残した山を消していく山行、今回は鳥海山を目指すことにした。メンバーはF夫妻と私の三名。
 日程は次のとおり計画した。

7月21日() 新潟経由酒田までJRを利用、酒田から鉾立までバス、鉾立から歩きで御浜小屋(泊)。
   22() 御浜小屋・・(外輪山経由)・・鳥海山(新山)・・・鉾立=バスで象潟=JRで酒田(かんぽの宿に泊まり)
   23日(土)  酒田市内観光

 このような計画でJRの特急券(座席指定)、山小屋もかんぽの宿も予約して21日大宮を出発した。新潟までは順調に行った。新潟から羽越線特急「いなほ」一号で酒田に向かうが、新発田駅でかなり停車していた。中条駅ではさらに長く停車し、乗客もプラットフォームに下りてぶらぶらし始めた。そのうち車内放送で運転打ち切りとバスによる代替輸送の案内があった。理由は強風のためであった。新潟・酒田間は約170q、まだその四分の一も走ってない。車掌に聞くと酒田までは約2時間かかるとのこと、これでは予定したバスはもちろんのことその次(最終バス)にも間に合わない。計画の変更を決意する。@きょうは酒田に泊まる。A翌日は一番のバスで鉾立まで行く。Bこの日は御室(頂上神社)に泊まる。C三日目に下山するが酒田市内の観光は放棄する、以上で合意が得られた。では酒田での宿泊はどうするか。22日に予約してある「かんぽの宿」に振り替えができるか聞いてみることにする。hamaさんがさっそく電話したら「喫煙室が一部屋だけ空いてるけどそこでよければOK」とのこと、これで宿泊は解決。山小屋に予約の変更を入れて、これも解決した。

 この日、バスは車掌の言っていた「約2時間」どころか3時間半もかかって酒田駅に到着した。もちろん特急券(座席指定料も)返してもらったが、大狂わせの初日であった。

 鳥海山は豪雪地帯にある山で、吹き溜まりには20〜30b年によっては50bの積雪があるということで、夏遅くまで残雪が見られるとのこと、またそういう写真をよく見た。ところが今回登り始めてみるとところどころに申し訳程度の雪しか残っていなくて残念だった。

ガイドブックには「指導標や案内板が少ない」と書いてあったが、現地に行ってみるとそのとおりだった。雪崩などになぎ倒されてしまうためかと想像した。残っている道標も文字が消えている。困ったのは大物忌神社へ降りてゆく道が分からないことだった。行者岳を回ったところから降りて行く道があるはずだ。それらしい道はあった。しかしそこには道標がない。覗いてみると断崖になっていて神社に通じる道とは思えない。そこをパスして大分先に行くと、ちょうど神社の真東あたりに降りて行く道があった。しかしここにも道標がない。一人の登山者がそこを降りて行ったがかなりの急勾配のザレ道のようで、とてもhamaさんを連れてゆく自信がない。時計を見ると16時を回るところだ。小屋の予約の時、係の人から「16時半までに入ってください」と言われていたので神社に電話を入れ「今神社の真上にいるのだがここからは降りられそうにもないので、行者岳に戻りそこから降りて行く」と連絡をして行者岳まで戻った。再度そこから慎重に確かめてみると梯子がかかったりしていてどうやら降りられそうだ。hamaさんに苦労をかけてやっと神社にたどりついた。ここではF夫妻が先行したが二人には気がつかなかったようだが「落石注意」の立て札が立っていた。上を見上げると大岩が今にも落ちてきそうな不安定な状態であった。後でhamaさんが小屋の人に聞いたところ、いまは私が神社に電話を入れたところから降りるのが正式なルートで、われわれが実際に通ってきたルートは落石に危険があるので使っていないとのことだった。
 それならなおさら降り口にそういう案内を立てておくべきで、もし危険なルートを知らずに通過中に事故に遭遇すればその通路を作った側の責任が問われるところだろう。

 鳥海山は高山植物の種類が多く花もきれいだとはルート経験者からは聞かされてきたし、どのガイドブックにも記されている。私が見た限りでは@北岳山荘から八本歯のコルに抜けるトラヴァースルート、A三伏峠から烏帽子岳に行く途中のコース、B荒川三山の中岳から荒川小屋までのコース、が花畑のすばらしいところだと思っていた。今回鳥海山に来てみたらここが一番だと思った。御浜小屋から鳥海湖にかけてそれはすばらしい花畑であった。

 鳥海山は成層火山の山だ。何回も噴火して今の形ができた。酒田方面から見ると緩やかに裾野を広げ非常に美しい。多分反対方面から見ても同じだろうと思う。その裾野を登りながら見下ろすとそこは樹木にびっしりと覆い尽くされ黒々として落ち着いたたたずまいを見せている。しかし頂上から北側を見ると大きな馬蹄形のカルデラとなっている。カルデラができる前にここにあった膨大な量の岩石は約2500年前に今の象潟方面になだれて行って多島海を作り、松島と並ぶ景観を呈していたという。芭蕉が奥の細道で「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んでいた時はまだそういう景色だったが、1804年の大地震で2メートルほど隆起し、その景観は消えてしまった。

 新山(2236b)にも登った。巨大な岩石がごろごろしている溶岩ドームだ。下から見上げているとその岩が今にも落ちてこないかと不安がよぎったが取り付いてみると意外にも簡単に登ってしまった。太陽がもう大分登っていたので影鳥海は見られないだろうと思いつつ海の方を見渡すと薄く影が確認できた。

 地形図を見ていて気付いたのだが鳥海山付近で秋田・山形の県境が直線で描かれているのだ。アフリカ辺りでは植民地の支配者が緯度・経度で線を引いて国境を定めていたことはよくあったが、日本の場合はたいてい川や海、山の尾根をたどって県境等を決めているものと思っていたのでなんとも不思議に感じた。帰ってから深田久弥の「日本百名山」を読んでその疑問が解けた。鳥海山のところで

「・・・米の産地である庄内平野も秋田平野も、この山から流れ出る水でうるおっている。今でも庄内と秋田の水争いで山の領分の奪い合いがあるという。・・・」と書かれている。この本が出版されたのが1964年で現在形で書かれているから多分この時まで決着がついていなかったのだろう。その後、両県で話し合いで「エイ、ヤア―」と線を引いて決着をつけたのだろう。(Yo.S記)

鳥海山雑感