戻る

 山を視るとこころが落ち着く。子供の頃は上州の山々をみて育った。赤城山はことさらに少年時代のやまであり父と歩いた山である。

 岩木山は一人の山であり、仲間との山である。18歳から38歳までの20年間を弘前で暮らした。大学山岳部でも弘前労山でも岩木山はホームグランドであつた。岩木山の四季をきちんと登っていればヒマラヤに行けると言われていた。

 弘前では、朝おきれば雪に輝く岩木山があり、帰り道には夕焼けの岩木山があった。大学生のころは、快晴の朝、山への誘いつよく授業にはいかず山に向かったこともあった。

 昨秋、弘前労山の岳友・三浦章男さんが急逝した。弘前労山が結成から40年。会の草創期、春山合宿では三浦さんが「ヒマラヤの雪ゴジラ」、私は「インドネシアの爬虫類」と綽名され仲間の中にいた。しみじみと想い出す。

 岳友の散骨の山行は赤倉コースを選んだ。赤倉は三浦さんと二人で挑み大雪のため退却したこともある想い出のルートであり、ブナの尾根と赤倉沢の険しさが織りなす陰影にとみ、赤倉神社から三十三番の正観音まで観音様が佇んでいる山岳信仰の静かなコースであり、入山者は少ない。

 いま立っているところは赤倉、沢の左岸。ここから登る。かつては弘前・鰺ヶ沢線の大森のバス停から一里あまりを歩いてここにたどり着いたものだ。

 同行者は千里の会のKさんとFさんである。この時期の岩木山はザラメ雪・残雪の山である。ときには降雪あり、急変して大荒れになる。遭難体験は忘れないものだ。30年あまり昔、4月21日、後長根沢上部から頂上にむけて登高していた弘前労山パーティは頂上直下で天候急変に遭った。猛烈な風雪である。打ち込んだピッケルを握り耐風姿勢で雪面に張り付いて風の息の弱まる十数秒のチャンスを捉えながら、かけ声とともに、アンザイレンしたまま弥生尾根をめざした。命からがらであった。黒雲の下にでてほっとし、また驚いた。Sさんの靴にアイゼンがついていない。それに、海が見える。日本海だ。ということは・・・われわれは大鳴沢に迷い込んだのであった。あの日、近別パーティでは一人が疲労凍死していた。標高1625mといえど北の山は侮れない。春山に入るたびにあのときのことが蘇る。よほどの心的外傷体験になっているのだろう。

 さて、今回の天候はどうだろう。弘前では数日間雨の寒い日々が続いていた。上では降雪があったことが麓から観察されていた。しかし積雪量は分からない。今日の足装備は、Kさんはワカン、Fさんはスノーシュー、私はアイゼン。手装備は、Kさんがウィリッシュ・ヒッコリシャフトのピッケル(博物館ものだ・・・)、Fさんはペア・ストック(流行かな・・・)、私はCAMPの軽量ピッケル(春山には短すぎる・・・)である。散骨登山だから、それぞれ想い出の道具を持ってきているのだ。まあ、今日一日は好天がもちそうだから足装備の出番はないだろうが・・・。

 赤倉神社の鳥居を仰ぐ。鳥居をすすむと右手に弘法大師が祀られている。右手には錫杖、傘をかぶり、誰かが着せたのか紫の法衣姿である。近くには別に三体一組の石像がある。風化しつつあるがお世話する人がいるようで、鉢巻姿、首には手拭いを巻いている。中央の立像は横綱力士のようだ。下半身は豪華な前掛けと太々とした飾縄、上半身は法衣のようなものを付けている。右の立像は褌姿の力士、左の立像は長裾の衣と烏帽子、右手には軍配のようなものを握っている、さながら行司姿である。相撲がもともとは神道にもとづき神に奉納される神事であったことに関連するのか。四股を踏むの「しこ」とは醜女(しこめ)の「しこ」をあらわし、穢れ、邪気を祓う行為であり、それによりその土地に五穀豊穣や無病息災をもたらす行為であったから、三体一組には津軽の農民の祈願が込められているようだ・・・。そのような連想があたっているのか・・・・。博覧強記の詩人にして博物学者民Kさんに尋ねることもなく歩を進める。

 雪解けで瀬音の高い赤倉沢をわたり右岸の尾根にでる。すでに雪道。赤倉沢を右手にみながら登る。
やがて行者小屋である。朱の鳥居のまえに石柱と石像あり、石柱には「赤倉山大山礼堅神社」とあり明治39年旧8月10日と建立日が刻まれている。石像は憤怒の貌、左手に刀をにぎり右手は巨鉞の柄を支えている。観音様たちがおわします赤倉の山門の守護をしているかのごとくである。

 山道はブナ林のなかをのぼってゆく。久しぶりの岩木山コースである。最後にきてから何年が経たか。定かでない。多分7?8年は経ているか。あのときは早春で三浦章男さんと登った。新雪が深くラッセルに苦しめられた。午後の2時までラッセルして下山した。その三浦章男さんが昨年秋になくなり、今日は散骨山行になってしまった。三浦さん重病の手紙がKさんからとどいて、ほんの数週間で逝ってしまった。見舞うもできず、死に目にもあえなかった。何故、もつと早く来なかったのか、とIさんから責められた。レーニン峰に遠征した屈強の三浦さんが、こんなにあっけないとは・・・かえすがえす残念である。彼は自然保護活動家でもあった。とくに「岩木山を考える会」については思い入れふかく、病床にあっても自然保護の原稿を書いていたと聞く。破壊されゆく岩木山を思えば、さぞかし無念であったろう。

 弘前労山の草創期、会員は新寺町の三浦宅にあつまって飲酒歓談したものである。もっとも私やKaさんは飲まないほうだから、飲んだのはKさんやIさんであったが。よくお世話になった。その弘前労山が40周年をことしは迎える。人の一世は、長いようで早いものである。彼は、岩木山のブナ原生林や貴重な自然を破壊してでも商売の種にしようとする資本家の輩と闘いつづけ、岩木山に関する本を数冊ものにした・・・文筆家でもあつた。

 ところどころ芽吹く樹あり、「あれはナナカマド・・・」「ブナはまだ芽吹いていない・・・」と小山さんは言う。なにしろKさんの博覧強記といったら驚くべきだ。草木の一本にいたるまで同定し説明してくださるが私には憶えきれない。

 Fさんは寡黙な人で、丈は180センチ超、目方は80キロくらいか、元国体選手でスキーをこよなく愛する人である。私やKさんより十歳あまり若く体力に余裕があるのだろう、大股でぐんぐん登ってゆく。ときどき立ち止まってKさんと私が追いつくのを待っている。

 ブナ林のブナの芽吹きまであと数週間はかかるか。春を待ち、ブナの樹は枝を空高く手をのばし降雨をみずからの幹に集めようとしている。すでに何度か降雨があったのだろう。樹幹を下った幹流水は根本から雪解けをすすめ、根元のまわりを窪ませ、或いは円く地面を露わにしている。山の斜面は朝日をうけ、地面の円い幾何学模様の散布と、ブナの樹林の縦模様が雪面の輝きのなかでモノトーンの幾何学的な対比をみせている。

 私たちは、観音様にあいながら登っていった。三番観音像は千手観音立像だった。風化が進んでいた。六番観音は千手の座像だった。石彫のかたちがしっかり残っていた。七番観音は台座部分まで雪に埋もれていたが、右手を頬にあてて思惟する姿が美しかった。八番観音像は頭部のみ雪面にみせていた。九番観音像は女性的な顔立ちをしていた。・・・登るしたがって観音様は雪の中にうもれていた・・・。 

 伯母石につづく長い尾根の途中で一本たてた。鶴田の廻堰が靄のなかに見える。遠く十三湖も見える。まさにここは津軽だ・・・。気になっていた携帯電話の着信をチェックする。Sさんから着信履歴あった。すくに返信する。眼下に見えている廻堰の辺りに彼は住んでいる。応答有り、昨日の相談事の事後報告を受けることになる。・・・当面の一件は・・・落着したらしい・・・。

山 〈・・・いま、赤倉神社から登っています。廻堰が見えています・・・〉
S 「なに、こっちから登っているのか・・・」(急に津軽弁風になって)
山 〈そんだ、庭さでて手さふってみはれ・・・吉直って叫ぶから・・・〉
S 「ウハハハハハハ・・・・」(なんだ、その話し方は、おかしな津軽弁だな・・・と笑われたか・・・)

                

 赤倉沢右岸源頭の祠で小休止して正観音に向かった。稜線は雪がとばされ岩にはりついてエビのシッポは午の光りのなかで融け始めていた。大鳴沢は雪に埋められ、たおやかに海のほうに続いていた。三十三番、正観音は左手に水瓶をもつ端正なすがたでわれわれを迎えてくれた。

 人の住む下界から仰ぐ赤倉沢。沢の源頭の鋭いキレットと赤色の絶壁は遠目には威風がある。赤倉は信仰対象のお山である。むかしから人は赤倉にみずからの願いをかけてきたのだろう。山頂に正観音をたてたのはいつのことか。その正観音はとおく津軽平野を観ている。いま、この国の人々は何を願っているのだろうか・・・。

 下界では一月余り前の3月11日に巨大地震がおきた。東日本大震災である。巨大津波、原発のメルトダウン・爆発・放射能物質の汚染などなどが起きた。予測されていた原発事故なのに、安全神話をふりまいていた東京電力と政府は予想外の大地震で・・・などと言い、報道は制限され、歪曲されて今日にいたっている・・・。       

 水が汚染され、土が汚染された。アジア大陸の東、日本列島の人々は、放射能汚染におびえるまま二十一世を生きようとしているのか・・・。

 詩人は予言者である。詩人にして博物学者のKさんはすでに原発事故を警告していた。彼の詩の一部をここに引用しておく。

  祝法無祭 2  ( コロボックル伝説 )

 火葬場の横の雑木林で
 キノコ狩りの夫婦連れ
 スーパーの袋が一杯に膨らんでいる

 ありゃ カルシウムが利いた

 さぞ旨いキノコに相違あるま

 と
 えらく愉快になったんだが

 君イ・・・・・

 カルシウムどころじゃないん

 やがて、それも多分遠からず

 青森県北郡六カ所村から

 偏東風(ヤマセ)に乗って

 ヨウ素だの

 セシウム137だの

 ストロンチウム90だのがや
ってくる
 そんな日にゃ

 君イ

 僕の破れ傘は勿論

 君のご自慢の英国製の傘も

 政府ご自慢の安保の傘だって

 間に合わない・・・・・・・・
       ・・・・・・・・
西暦3636
考古学者K・ミヤザワは報ずる「伝説上のコロボックル直系の子孫と考察されるツガルトロプスモツケエンシスは西暦1999年頃、強い放射能で死滅したらしい・・・・・」と・・・。
      「密造者」39,1993,p31-34

 まさに後世に評価されるべき詩であろう。

  観音様の道をのぼってくると、観音様を媒介にしてさまざまな事象がつながりその意味が顕らかになってくるように思われた。それにしても正観音の石像を昔のひとはよく運びあげたものだ。相当に篤い信仰があったのだろう。

 岩木山頂は雪の中にあった。昔の石室の小屋は崩壊していた。山頂の岩木山神社奥の宮で般若心経を読経した。こころの中で散骨した。それから、いまは亡き岩木山の仲間たち、菊地哲さん、長内敬三さん、相馬正八さん、三上マレツグさん、小野さんのご冥福をいのり再び読経した。帰らぬ仲間たちの顔がうかぶ。それぞれはどんな思いで生き、岩木山に登っていたのだろうか。自分の人生を振り返った。私の人生は忙しすぎた。仕事・仕事の毎日だった。朝7時から夜11時まで働いていた。帰らぬ家はさながらに母子家庭で、私は、民医連医療に没頭する毎日の生活をSeven-Elevenだなどと自嘲していたが、大切なものを失っていたのだろう。子供の成長すらよく憶えていない。たまさかの休日には山に入っていたが、その山仲間とも十分に話しを聴けなかった・・・・。悔やまれることばかりである。

 下山は嶽温泉を目指した。リフト乗り場のとこから、雪崩そうな沢の源頭をまいて硫黄の匂いがする湯ノ沢右岸にでて、そのまま下った。いまは亡き岳友を偲びつつ下山した。

 三浦章男さん、あなたは労山事務局長として、また会長として、山岳会会報を出し続けたように、何事も徹底して成し遂げる意志の人でした。厳冬の岩木山に40年間欠かさず登った情熱の人でした。一番弟子、二番弟子と自称する男どもが集ってくる信望のあつい「先生」でした。ご冥福をお祈り申し上げます。

 岩木山での散骨の翌日、まなかいに十三湖をみたくて車をとばした。どこまでも直線道路がつづく屏風山メロンロードは対向車もほとんどないくらい空いていた。奇しくも、津軽亀ヶ岡焼の「しきろ庵」の標識を目にした。三浦さんの斡旋であろうか。十三湖の帰路、迷わず立ち寄った。しきろ庵には縄文時代の竪穴住居が再現されていた。中に入りひとときを過ごした。庵主、一戸さんは髭貌で丸い大きな目は少年のような人だった。木造の田舎に窯をかまえ陶芸作家として暮らしている。どんな思いで暮らしているのか・・・。聞くに聞けないでいたが・・・。竪穴住居の三和土の中央には小石が円く置いてある。一戸さんは火をおこし、肉を焼く。奥さんはコーヒーを淹れる。薪の煙は葦屋根の換気口から逃げていく。煙くはない。竪穴住居はよくできたものだ・・・。

 ああ、また目に映る現象のほうに私の注意はむいてしまう。自己と外界の中間あたりをよく視ていたいのであるが・・・人は内側を観たがらないものなのか・・・。 一戸さんは問わず語りに・・・三浦さんの最後、りえさん(奥さん)と二人の娘さん、一戸さん夫妻の五人で看取ったときのことを語った。・・・ともに三浦さんの教え子で、佐藤吉直は一番弟子。一戸さんは二番弟子で・・・水汲み係で赤倉の湧水を三浦宅に運び三浦さんの闘病生活を支えた・・・三浦章男さんの思いで話は尽きない・・・。           (Si.Y記)

岩木山

岳友・三浦章男の散骨の旅